盆栽妙店長 高村雅子
三重県鈴鹿市出身 盆栽家、盆栽ライフアドバイザー
三重県鈴鹿の自然豊かな地に生まれる
三重県鈴鹿市に生まれ自然に溢れた環境で,部活でバレーボールに励むかたわら、生花やお茶、書道を習い日本文化にふれる10代を過ごしました。
大学進学を機に大阪で暮らすことになり保育と心理の勉強に励みました。
卒業後に就職した企業で秘書として働きました。慣れない都会の空気に戸惑いながらも、趣味ではじめたベランダ園芸で植物に癒され、毎日を頑張っていました。
盆栽との出会い
結婚して退職、子育てに奮闘。子供も次第に大きくなり、手がかからなくなっていき、かねてより大好きだった植物をもっと勉強をしたいという気持ちを持ち続けながら日々を過ごす中、偶然通りかかったお宅の軒先で見かけた盆栽に目にして不思議な気持ちを感じました。
盆栽はとても小さなものでしたが、存在感があり何かを訴えかけてくるようでした。はじめて見たときはとても懐かしい気持ちになりました。田舎を思い出し母に会いたくなったのを覚えています。
しばらくたったある日私はまた同じ盆栽を目にして今度は癒やされ落ち着いた気持ちになりました。また別の日は小さな盆栽に生命力を感じて生きる気力が湧いたこともありました。
見る時々によって印象を変える盆栽はまるで自分を写す鏡のような存在だと思いました。とても興味が湧いた私はそれから盆栽について調べはじめました。
盆栽について調べようにも身近に盆栽をやっている人もおらず、また近くに売っているお店すらみつけることが出来ませんでした。当時は盆栽の書籍やインターネットでも情報があまりなく、とてもハードルの高い趣味なんだと感じましたが、負けず嫌いな私はおかけでもっと知りたいという意欲が湧いてきました。
師匠 大田重幸との出会い
母に盆栽の話をすると盆栽職人の友達がいるよと、なんと紹介してくれることに。私はさっそく母の友達の盆栽園に足を運びました。
生まれてはじめての盆栽園に足を踏み入れた瞬間、入り口より並ぶ盆栽達に衝撃を受けたのは今でも忘れません。芸術を見に美術館にいったようでもあり、古い時代の日本にタイムスリップしたようでもあり、不思議な気持ちでした。
同郷の盆栽職人 太田重幸氏に盆栽のことを色々と教えてもらった私は、自分でもやってみたいという気持ちが芽生え、週末になると盆栽園に通う生活がはじまりました。
子供が小学生にあがりある程度自分の時間が持てるようになったので、意を決して本格的に盆栽の世界へ踏み入ることにしました。
どちらかといえば男性社会な上、専門用語にもついていけず、見て覚えろの世界にとまどいもありましたが、師匠の一挙一動を見逃すまいという姿勢で、帰宅すると、その日のおさらいで、やったことを本やネットなどで補足する日々が続きました。
盆栽教室を開業
こうして盆栽の奥深さを修行した後、師匠の了承を得て、自宅で盆栽教室を開業。
当初は生徒さんも2人、3人程度でしたが、そのうちありがたいごとに、口コミでご近所さんの評判となり、ちょっと気をよくして、自分が感じた盆栽の楽しさを世の中の人にしってもらい、盆栽のよさをもっと広めるべく、2007年にインターネット盆栽販売店「盆栽妙」をオープンしました。
ちなみにサイト名の由来はママ友たちから「妙な趣味だね」と言われたのがきっかけです。まだ盆栽をする女性が珍しかった当初、盆栽自体の一般的な理解も低く、そう思われても仕方のないものでした。盆栽って楽しいんだよってイメージをかえたくて、初心を忘れないように屋号を盆栽妙にすることに。
以降店長として、盆栽ライフアドバイザーとして、盆栽の楽しさを伝えるべく日々奮闘する毎日でした。
順調に売上を伸ばし、TVにも取材されたりして、盆栽を広める仲間も増えお店も軌道にのってきたある日のこと、1本の電話で人生最大のピンチに陥ります。
最大のピンチが訪れる
メインの仕入れ先である盆栽生産者が廃業すると連絡を受けたのです。売上の6割を占める盆栽を供給してくれていた生産者の廃業はすなわち売上を6割失うということでした。
普通の商品であればそこまでは困らないかもしれません。盆栽は生産工程が特殊でどこでも誰でも作っているものではなかったのです。仕入れようと思っても出荷時期も決まっておりすぐに手に入れるのは困難でした。
ここで少し盆栽の業界についてお話ししたいと思います。盆栽を生産者から仕入れているといいましたが、私は盆栽作家です。盆栽を自分のセンスで作り上げて商品にして販売しています。私が仕入れているのは完成した盆栽ではなく、いわゆる盆栽素材という材料になります。
盆栽は盆栽農家や生産者が種や挿し木で苗から成長させ、ある程度の段階で盆栽素材として出荷されます。
出荷先は盆栽職人や盆栽作家、盆栽園など最終加工を施す先です。ここで完成され盆栽としてエンドユーザーのもとに行くのです。うちのように仕上げと販売だけを行う業者もおれば、種から苗までの専門の農家、また、生産から加工・販売まですべてを行う人もおります。
私は盆栽素材が無いと盆栽がつくれません。盆栽が販売できなくなってしまうのです。
盆栽を求めて全国に旅する
盆栽素材がなければここで終わってしまいます。私は全国の生産地を回り取引してもらえる先を探しました。
はじめは、盆栽を心待ちにしてくれているお客様と盆栽を好きになって一緒に働いてくれているスタッフのためにという気持ちで必死でした。
そうして全国の生産者とお会いし、話を聞く中で生産者が抱える問題を知ることになります。
盆栽の現状を知る
それは後継者問題でした。世の中に盆栽が忘れ去られた存在になっていくなか縮小する盆栽市場で作っても売れないという状況が廃業や縮小を引き起こしていたのです。
日本の文化として盆栽に誇りをもって作ってきた生産者が泣く泣く廃業していく様を目の当たりにして私はとても悲しい気持ちになりました。
今まで盆栽に携わり販売している中で、生産者の気持ちについて深く考えなかったことがとても恥ずかし気持ちでいっぱいです。
盆栽の素晴らしさは伝えてきたつもりです。でもそこに生産者の苦労や思い、作り手の顔が見える伝え方はありませんでした。
もっと職人や生産者、作り手のことを知りたい、そして知ってほしい。新たな気持が芽生えた瞬間でした。
新たなスタート
全国の生産地を回りしっかりとお話を伺ったことが功を奏し、香川県の生産者と新たにお付き合いすることになりました。
おかげで安定的に仕入れすることができ、売上は回復することができました。もちろん生産者の顔が見える伝え方をしっかりと意識しています。そのために生産者とのコミュニケーションは欠かせません。
香川県の高松市は松盆栽の生産量が全国1位の、世界からも評価される盆栽の里でしたが、多分にもれず後継者問題で生産量や生産者はピーク時の半分以下に減っている状況でした。
その現状を憂いているのは私達だけではありません。地元の4代目生産者北谷隆一さんも当事者の一人として頭を悩ませていました。
私は大阪から香川に仕入れにくるたびに、若手職人のリーダーであった北谷隆一さんはこれからの産地の未来をいろいろと語ってくれました。
そうして色々なお話しを聞くうちに、この盆栽の聖地高松でもっとできることがあるんじゃないかという思いが芽生えてきました。
盆栽の聖地 高松へ
北谷隆一さんやいろんな人のお誘いもあり2016年に大阪から香川にお店を移転する決断をしました。
生産地に拠点を移した私達は、生産者とより密になることが出来、盆栽のあらゆる情報を発信することができるようになりました。
世の中にもっと盆栽のことを伝えたい。その思いが実現することができたのです。
こらからの思い
立ち上げ当初は、インターネットで盆栽の魅力をうまく伝えられず悔しいおもいもしました。生産者や盆栽職人、お客さまから届く声に一生懸命耳を傾け、試行錯誤を繰り返してきました。
おかげさまでお客様に恵まれ、2020年無事に盆栽妙も15周年を迎えることができました。
これからも盆栽の魅力をもっと伝えられるように、頑張りたいです。
盆栽のよさをよく知っている方にも、まだよく知らないという方にも新しい発見があったり、こんなにすばらしいものが日本の文化芸術として存在しているんだという、誇りを少しでも感じていただけたりすればうれしい限りです!